眼鏡レンズ発祥之地

最近、大阪にかつて眼鏡レンズの一大産地があったことを知りました。
半導体露光装置の開発に携わってきた者として関心を抱かずにはおられませんでしたので、昨日行ってまいりました。

散歩経路の右下の四角付近が田島

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大阪市生野区にある田島という地域に、眼鏡レンズの研磨工場がひしめき合い、最盛期には200を超えたそうです。
田島の眼鏡レンズは田島村の石田太次郎により、1857年(安政4年)に創業されました。彼は幼いころ足に怪我をし、家業を手伝うことができず、丹波の国に赴き、眼鏡レンズの製造技術を習得したのち、田島村に帰り、村の人々にその技術を伝えた。
なぜ丹波の国に眼鏡レンズの製造技術があったのか調べてみましたが、分かりませんでした。丹波の国はよい砥石を産出しているので、鏡や刀の研磨職人が多くいたのかもしれません。

国内だけでなくアジア、欧米諸国にも輸出され、昭和50年には出荷額172億円に達した。
しかし、眼鏡レンズの材料がガラスからプラスティックに変わると、ガラス研磨技術は不要になり急速に工場が減少していく。今では当時の隆盛を伝える景色はほとんどありません。

眼鏡レンズ発祥之地の碑がある田島神社。

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眼鏡レンズ発祥之地の碑DSC_9445

田島は歴史の法則「はじめ成功に導いたものがやがて失敗の原因となる」を見事に体現した町です。イノベーションのジレンマの好例ともいえます。成功が大きければ大きいほど、失敗(没落)の度合いも大きい。

ガラスレンズはお椀の形をした特殊な研磨皿で研磨されます。この特殊な研磨方法が成功のカギで、熟練職人さんしかできないからノウハウを持たない他の地域では難しい。田島がこの特殊な製造技術を独占して、大成功を収めていたのです。
一方、プラスティックレンズは金型があれば、短時間に大量生産できる。当然コストも安い。研磨の職人さんも必要ない。
もの作りの設備はいったん成功し出すと規模を拡大し、その慣性力は相当なものになります。容易に進路を変更できません。しかし、それ以上に慣性力が大きいのは人間のこころ。成功体験した経営者はそれに固執してしまう。職人さんは今まで培ってきた技能を捨て、まったく異なる技能を習得することなどプライドが許さない。結果として、現在の田島の姿となる。

メガネフレームで有名な鯖江はかつて大阪から眼鏡職人を招いて産業を興しました。田島の職人さんだったかもしれません。田島と異なり鯖江は生き残っていますが、地場産業としては縮小傾向にあるようです。金属フレームを得意としますが、世界的にはファッション性に優れるプラスティックフレームに押され気味。
田島はレンズ製造という部品の地場産業ゆえに慣性力が大きく「破壊と創造」ができませんでした。鯖江はメガネフレームという地場産業を超え、個別企業が独自の完成品まで作るようになった点が異なります。だから生き残っている。お客さんはフレームが欲しいわけではなく、自分に似合う完成品としての眼鏡が欲しい。ファッション性があるなら素材を問わないわけです。

田島の町並みを眺めながらこんなことを考えたわけですが、翻ってかつてお家芸だった日本の半導体露光装置は田島の眼鏡レンズのように衰退しました。
半導体メーカーは露光装置が欲しかったのではなく、特殊技能を持たないオペレータが操作しても、半導体を安定して大量に製造できる装置が欲しかったのです。手段は問いません。
なのに工場現場の実態を知らない技術者が上から言われるがままに装置の開発をしていた。これも思考停止の一形態ですね。

田島の町はそんな反省を今一度思い起こさせてくれました。

さいごに、
昨日は12キロ歩きました。コリアタウンや鶴橋の市場はおもしろいです。とはいえ、個人的には今のような派手さのなかったどこか寂し気な30年前の風景の方が好きです。
看板がなく一見普通の長屋で、広間に七輪が並べられ、おいしい焼き肉を食べさせてくれる店がどこにあったか思い出せないのですが、今もあるのかなぁ。