再び、「恕」

昨日、六甲山の裏街道を走っていたときのこと。
信号待ちで車が十数台縦列を作っていました。
信号が青になった時、右折待ちしていた車が急に直進車線に入りました。
おそらく右折地点の間違いに気づいて慌てていたのだと思います。
しかし、それが急激でしかも割り込みだったので、割り込まれた車があおり運転をし始めたのでした。わたしの目の前の、小さな子供のいる家族連れのワンボックスカーです。
主人と思われる男は車間距離を詰めてあおるだけでなく、運転席の窓を開け、右手をだらんと出し、前の割り込んだ車に対して威嚇するような手ぶりをしていました。
数百メートル走ったところで再び赤信号になり、割り込んだ車は右手の未舗装の農道へと逃げました。
あおっていた男は中指を突き上げていました。
家族の者、特に子供はどんな思いで父親の行為を見ていたのでしょう。
その後の運転を見ていると、その車はあおっていなくても車間距離が短かめなので、頻繁にブレーキをかけていました。非常に燃費の悪い非効率的な運転です。
いわゆる「いらち」です。
急に割り込んだ方も悪いのですが、あおり運転がいかに危険で愚かな行為か客観的に見ることができました。
昔なら割り込むときには窓を開けて相手に合図や「すみません」と掛け声をかけていたので、相手を怒らせることはなかったと思います。
しかし、最近ではそういった行為はほとんど見られません。

 

不寛容な時代と言われています。
わたしたちは簡単に人を許すことができない。
前のブログで「恕」について述べました。↓
子貢が生涯実践する価値のあることを一言でいうと何ですかと孔子に問うたとき、孔子は
恕だ。自分がして欲しくないことを人に対して行ってはいけない。
と述べました。
恕とは、思いやり いつくしみ 許すという意味。それにしても怒と恕、とても似ているようでまったく意味が異なります。又(手を働かせること)を口(神に誓っておとなしく従うこと)に変えなければならないのです。
「葉隠」に出てくる湛然和尚のことばに、
武士は勇気を表にして、内心には腹の破るる程大慈悲心を持ざれば、家業不立もの也。
(武士は勇気を表に出す一方で、内面では腹の中に収めきれないほどの大慈悲心を持たなければ、家職をまっとうできない)
があり、これも恕に通じるのではないでしょうか。
侍は帯刀を許されているがゆえに、簡単にそれを抜いてはいけないのだという戒めです。
車を運転することを許されているわたしたちは、使い方を誤ると簡単に人を殺めてしまう。
だから、「内心には腹の破るる程大慈悲心を持ざれば、家業不立もの也」なのです。
SNSの普及で、普通の人が簡単に社会に対して意見を発することができるようになりました。わたしも含めて一億総評論家気取りです。
そのほとんどが他人に対する激しい非難の声です。まさに「怒」です。
小林秀雄はこう述べています。
自分と戦う人間の数が減れば、それだけ他人と戦う人の数が殖える
克己するという内的経験を持たない人間の戦う意識は他人へと向かう。
本来、人間は自分と戦うことで成長します。
一流のアスリートはライバルと激しく争っているように見えますが、その実、彼らがもっとも恐れ、戦っているのは怠惰なあるいは思い上がった自分自身です。
他人と戦う経験しかない者のこころは壊れるばかりです。他人を傷つけることが実は自分のこころを傷つけていることに気づいていない。
いじめを行っている生徒たちのこころはすでに病んでいる。
その病を治さない限り、一生美しい風景に出会うことはない。
ネットに他人を非難する声が溢れているということは、それだけ内的経験を持たない人間が増えているということの表れ。不幸な人が多いということでしょう。
あなたもあなた以外の人も幸福な人生をおくるには
「恕」
しかありません!