何年か前に小林秀雄の随筆がセンター試験の国語に出題され、難しいと話題になりました。
そのとき、彼の文章を問題に出すことが間違いだったかもしれませんとブログに書きました。
小林秀雄と入試問題
早稲田大学の石原千秋教授が新聞紙上でかなり手厳しく批判していました。
根拠のない文章は好みの押しつけにすぎない
それでわたしはこう書きました。
早稲田の先生のおっしゃる根拠とは、小林秀雄の言う、まさに合理的な仮面に過ぎない。
精神は、豊かな内的経験を持った感受性のある者だけが感じられるのであって、事実として示すことはできない。
しかし、真実ではある。
決して好みの押しつけではない。
小林秀雄は、それを忘れたくないから書き続けたのだと思います。
小林秀雄の随筆は、文章というよりは精神。
それを入試問題にしたのは、確かに間違っていたのかもしれません。
最近、本屋で「小林秀雄の警告」という本が目に留まり、読んでみると自分の考えと同じようなことが書かれていました。
小林は近代の構造により覆い隠された領域を批判の対象としました。
だから、われわれ近代人には小林の仕事が「見えて」こないのでしょう。
適菜収という人物を知らなかったのですが、小林氏の本をよく深く読んでいると思いました。
石原氏は若いころ小林秀雄のファンだったと批判文で書いていましたが、適菜氏の表現を借りれば、目の見えていない人物。つまり小林秀雄の精神を感じることができない大学の先生です。
21世紀の日本では、政治家だけでなく学者でさえも学問を身に着けていない愚者であることに驚かざるを得ない。
道理でつまらない世の中になるわけです。
小林秀雄アゲイン!
以下、本書でこころに残ったことばを記します。是非、本書を読んでみてください。
顔より言葉を重視するのが近代である。
小林は言葉より顔を重視した。
「近代精神の最奥の暗所」に踏み込むためである。
ベルグソンが言う「直観」とは、本能や感情に従ってものを見ることではない。その逆だ。普通の見方ではこぼれおちてしまうものを反省と熟慮により見落とさないように努力することである。
近代科学の本質は計量を目指すが、精神の本質は計量を許さぬところにある。
認識とは、多種多様な数えきれないものを、等しいもの、類似したもの、数えあげうるものへと偽造することなのである。
ピカソは、白いカンバスを前に、筆を取り上げて、「さあ何が出来上がるかな」とよく言うそうである。・・・
彼は何が出来上がるか知らないのである。
ピカソの部屋はガラクタで埋め尽くされていた。・・・
彼に、部屋をちらかす趣味があったわけではない。整頓する理由が見附からなかっただけだ。
書いてあるものは、ほかに書き直しようがないほど明瞭であるが、読むものはそこに書いてあるもの以上のことを聴く。つまり、音楽をきくのと同じようにして読む。
それが文体というものなのだろう。
小林は文学者にとってもっとも本質的なことは「トーンをこしらえること」だと言った。
モーツァルトが独創を行うことができたのは、ものまねを極めたからである。・・・
そして最後の境地が「型破り」である。
いまの教育は暗誦させないですね。ものごとを姿のほうから教えるということをしない。・・・言葉にも姿がある。日本人ならかならず日本の言葉についての姿の感覚があるはずです。その感覚を浮かび上がらせるのが教育ですよ。
教養とは型である。
当時の学問とは、学というよりむしろ芸に似ていた。
目が見えすぎるのは狂気と紙一重のところがある。
いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。
近代とは人間の生の衰弱の過程である。
保守とは「常識」に従って生きることであり、保守主義とは「常識」が失われた時代に「常識」を取り戻そうとする動きのことである。
常識がある人間は、革新勢力の「非常識」に驚き、「乱暴なことはやめろ」と警告する。
要するに頭の悪い人たちが「保守]を自称するようになってしまった。
平等の暴走は全体主義に行き着く。
思考を停止するからイデオロギーが必要になる。
では、賢者と愚者の違いはどこにあるのか?
それは学問を身に着けているかどうかである。
偉大なものは時代が生み出すのである。
モオツァルトにとって制作とは、その場その場の取引であった。・・・
彼は、その場その場の取引に一切を賭けた。即興は彼の命であった・・・
小林がきちんと読まれてこなかった理由も同じだろう。
そして少数の例外を除いて、これから先も小林がきちんと読まれることはないと思う。