復興よりも新生

神戸出身のわたしは、かつては1月17日が来るとうしろめたさを感じていました。当時、日本にいなくてアメリカに赴任していたからでした。両親や親戚、関西にいる友人たちが震災の苦労話をしていると、話に加われないのです。10年くらいたったころ、今は神戸大学の教授で、震災当時カリフォルニア大学で教鞭をとっていた大学研究室の後輩に「うしろめたさ」の話をしたら、「僕も同じですよ」と同じ感情を持っていることを知りました。別に自分がそこにいなかったから家族が苦労したというわけではないと思うのですが、とにかく申し訳ないという気持ちがしたのでした。震災から27年、両親や叔父叔母も何人か他界した現在、震災の苦労話を聞くこともありません。そしてコロナ禍も3年目となり、知人と直接会う機会もかなり減り、ますます震災の記憶は遠くなった。そしてうしろめたさも感じなくなった。つまり、自分の周りでは完全に風化しています。

震災直後、アメリカから関西への電話がまったく通じませんでした。両親の安否を確認できたのは3日目です。同僚の奥さんの実家が千葉県で、状況を説明してもらったところ、親戚の方が鳥取におられ、鳥取からわたしの実家へ電話してもらい安否確認できたのです。あのとき、東京-大阪-兵庫の回線は通じなかったのですが、迂回路の千葉-鳥取-兵庫の回線は通じていたのです。

サンフランシスコのテレビ局が震災直後に神戸入りして毎日その様子を伝えてくれていたのも大いに助かりました。まるで空爆を受けたように神戸の街のあちこちから黒煙が立ち上る光景は、地震と戦ってきたサンフランシスコの人々にとって他人事とは思えなかったのでしょう。1995年2月に録画した地元テレビ局チャンネル4の地震特集の動画を今年も紹介します。

録画した記憶を頼りに、26年目にビデオカセットの中から発掘しました

神戸や東北では「復興(以前の状態に戻す)」ということばが掲げられていますが、人口減少、経済規模縮小の日本で元通りに戻すことは至難の業です。多額の予算を投入して立派な建物や道路を作っても、そこに住む人がいない。むしろ現実に即して「新生」ということばを掲げた方が多様な知恵が出てよいのではないか、と思った今日17日です。